いずれ独立したいという思いはあったのですが、順調だった社会人生活の中で、このまま会社にいては依存してしまうのではないかと不安になったんです。そうなったらおもしろくない人生になりそうだと思ったので、自分の足で立っていきたいと思って退職を決意しました。
『高級芋菓子しみず』の広報やSNSをすべて任せていただき、広告費やコストを最適化しながら集客できるサービスを追求していかなければと思いました。成果がしっかり出せたことも嬉しかったのですが、この案件をきっかけに実績が付いて、新たな顧客の紹介というご縁をいただけたことが大きかったと思います。
私の場合は本当に人脈から仕事が広がっていきました。
ブランドを立ち上げた株式会社未知インターナショナルの綱場代表とは、プライベートでもお付き合いさせていただいています。
私はもともと勉強が得意ではないんです(笑)。だからリリースしてから修正しながら徐々に形にしていきました。
お客様とは二人三脚で進めさせていただけたのも大きいですね。それでうまく売上や集客アップに成功すれば、別のクライアントを紹介していただける善循環で進んできました。
キョードー大阪に勤務していたころ、歌がすごくうまいのに売れていないアーティストを見て、いいモノは売れてほしいと思ったんです。いずれはまた、音楽フェスのステージのクリエイティブも手掛けたいと思っていますが、まだそのフェーズ(局面)ではありません。
今は、営業や経理、総務などすべて合わせて成り立っている『会社』という複雑で難しい作品づくりを突き詰めたいと思っています。
そしてゆくゆくは音楽フェスなどのリアルイベントや今関わっている飲食に関わる<作品づくり>も手掛け世界に発信したいですね。
もともとは、私の父がこの会社に勤めていました。当時は3代目社長が経理全般を担当し、取締役専務の父が営業を取り仕切っていたんです。私は畑違いの職場で仕事をしていたのですが、当初アルバイトとして入社して社員になりました。そこから30年以上になりますね
私はこの会社に入ってずっと営業部門で働いていたのですが、3代目が社長の座を退いて会長になることになって、その際自分に『4代目社長就任』のお声掛けをいただき、2022年の6月、正式に社長におもむくこととなりました
先ほども申しましたように、私の父親が営業部門の責任者で、私に対しては息子ということもあってすごく厳しかったんです。今、考えればそれが愛の鞭だったとは思います。どちらかといえば昔気質のワンマンなタイプで、私だけではなく、周りも父親が『こうや!』と言えばだれもノーと言えない環境でした。そうやって30年以上いっしょに仕事をしてきましたが、父親は顧問になって一線を離れ、前社長も会長になって経営から退く。経営陣がまったく違う人間になって、新たなふじや社に変わることになります。それに私が社長に就任した時期は、まだコロナ禍の影響も尾を引いていましたし、正直不安でしかなかったですね
歴史の長い会社ですから、継承していくべきことは多くあります。ですがその一方で父や先代から長く引っ張ってきた古い部分もあり、会社の体質として時代にマッチしていないところも残っています。ですからそれを変えるための新たな取り組みに、まずは手を付けました
本社を始め工場・物流センター・本店の電話回線も今の時代に対応したものに入れ替えました。それに本社のオフィスは私が入社してから30年以上、なにひとつ変わっていなかったんです。みんな、これが当たり前だと思っていたんでしょう。だけど今は決まった席ではなく、フリーアドレスで仕事をする時代じゃないですか。オフィスも改革して、従業員さんがより力を出せるような働きやすい職場に変えていきたいなと考え、徐々に改善している状況ですね
実は父親のワンマンぶりが、私はすごく嫌だったんです。だれも歯向かえないから、みんな自分の意見を言わなくなる。今も少数精鋭でよく頑張ってくれている従業員さんばかりなので、私はともに話し合ってやっていくべきだと思うんです。かつての社風を徐々に変えていき、個々の意見を大事にし、やる気を出して自由に働ける企業に変えていきたいと考えています
原材料は契約農家さんにお願いして、減農薬栽培した米も使用して精米から焼きまで一貫して、弊社の職人が自社工場で作っているんです。製法に関しては品質が変わらない部分は機械を用いて、省力化を図っています。ですが、弊社のいちばんのヒット商品である『鬼サラダ』は昔ながらの製法を守らないと、触感や味が変わってしまう。そういったところは製品のクオリティを第一に考えて、昔からの作り方を守り続けています
新商品の開発も、もちろん行っています。以前から販売していた『海鮮あられ』を、インバウンドのお客様向けに改良しているのもそのひとつですね。それだけではなく、次の定番品になるような商品も必要だと考えています。弊社の商品をご購入いただく方は、完全に40~70代の女性が中心なんです。つまりそれ以外の、たとえば30代以下の世代に向けてのアプローチは、今の課題ですね。より購入しやすい価格で、なおかつパッケージデザインも工夫して、OLさんのハンドバッグのなかに入っているようなイメージの新商品を開発して5月から販売します。ほかにも20~30代のサラリーマンの方が、たとえば出張で新幹線に乗って、車内でちょっとしたお酒のおつまみになるような新商品にもなります
今後いちばんのメインになってくるのは、『法善寺あられ』をはじめとした商品の全国展開ですね。そのためにはマーケティングや他社さんとの差別化が必要ですが、そこは弊社がこれから強化していかないといけないところです。SNSを活用するのがいいのか、あるいは別の方法があるのか。そこをどうしていくかは私の課題であり、会社全体の課題でもあると認識しています。例えば「大阪みやげといえば、法善寺あられ!」のポジション獲得です
そうですね。これまでは順調に売り上げを伸ばしていましたが、今はそれが鈍ってきているのは否めません。だからこそ、ここからがステップアップしていくタイミングだと思いますし、そのためにいろんなことにチャレンジしていこうと考えています
教育に関わりたい、教育事業をしたいという気持ちがずっとあったんですよ。若い子がどんどんいろんな経験をして、社会に出て活躍できればいいと思っていたんで。新卒で入った会社では大学生向けの就職支援をしていたんですが、起業してからはバッティングを避ける意味もあって高校生の就職支援に進みました。
学校によっては一年生の時から関わらせていただいたり、業界研究会ということで様々な業種の企業に集まってもらい、一社ずつ話を聞いてもらったりなど、各学校に働きかけています。
各学校でプログラムは違うのですが、高チャレの冊子については600校以上・関西の高校の約8割に使ってもらっています。この冊子を使って先生が高校生に教えるケースもあるし、弊社のメンバーが講演に行く場合もあります。教員や学校によってプログラムを変えつつ、教育の手助けを行っています。
高チャレ表紙を黄色にした理由は、自分に光を当てて欲しいという気持ちからです。就職する時って、自己主張しながら自分の進む道について、考えないといけないタイミングじゃないですか。その選択をする時に、一人一人の個性を輝かせるスポットライトの色……というイメージです。
めちゃくちゃ派手な色なんですけど、派手でもいいからボロボロになるまで使ってもらえる冊子を作ろうというコンセプトですね。
大学生って、大学院に進学しなかったらほぼ絶対就職しないといけないですよね。でも、高校生が就職する理由って、進学できなかったからとか、親との関係とか、大学に行く意味がないからとか、多種多様なんです。モチベーションは人それぞれですが、絶対社会に出なくちゃいけないというプレッシャーは大学生より低いですね。
だから本当に危機感がないし、『何かこういう仕事をやってみたい』という気持ちすらないこともあって。
彼らは本当に何気なく生きているんです。だから、高卒で就職した人って、圧倒的に1年以内、もっというと最初の1ヶ月以内で退職してしまう子が多いのが事実です。事前にしっかり会社を調べないから、早期離職に繋がるんです。
『高校生は学業優先』という考えがあって、就職の際は学校推薦でというルートが決められているんです。だから、どういう教員に当たるかが就職の良し悪しを大きく左右します。
今の高校生の就職って、教員が求人票を持ってきて『○○くんの性格やったらこの企業が合うやん。ここ行ったら?』と言ってきて、高校生がそれに言われるがままに従う……というケースが大半なんです。
『いい大学に入ったらいい会社に入れる』 って、今では全然常識じゃないと思います。でも、一度も社会に出てない教員の中には、未だにそれが正しいと思っている教員も多い。 そんな教員が保護者みたいになってて、 『○○君はここに就職すればいい人生になるから』 とって、高校生の人生を閉ざすような教育をしている。そこが私の中でネックになってます。高校生たちは、自分で考える時間や力がまだ備わっていないにも関わらず、そのために必要な取り組みを学ぶ余裕が無いんです。
しかし、現場の教員達は教育以外の業務で手がいっぱいで長年の仕組みを変えることが難しいのが現状です。そのため、生徒にキャリア教育を含めたアクションを起こす余裕がこれ以上確保できず、企業が学校に持ち込んだ紙の求人票をファイルで見ることしかできないんです。なので、私たち高チャレでは、キャリア教育などを行い、自分の力で将来を選択できる機会を提供する取り組みを行っています。
今って、高校生に来てほしいと思っている企業が増えているんです。でも、既定路線の採用方法では企業が学校を訪問して求人票を渡して、それを教員が高校生に紹介する形になっています。手元に求人を握っていることになるので、教員が困ったり焦ったりしないんです。だから異様な形で高校生に就職先を紹介して、その結果離職してしまう。企業と学校との付き合い方を、根本的に変えないといけません。
継続的な情報発信は続けています。教育の現場の人達だけではなく、政治が絡んだ話にもなってくるんで、とにかくいろんな立場の人達に対して『変えないといけませんよ』というメッセージを継続して発信して、仲間を増やしています。例えば、教育委員会とかに対してもずっと働きかけています。
『このままでいいじゃん』『波風立てんといて』という人は絶対にいます。また、教育現場はとにかく縦割りがすごいので、教育委員会と校長会とキャリア教育の部長会で全部意見がバラバラで、しかもそれぞれが責任を取らなくていいようにたらい回しにされることも多々あります。
でも、こういう状態には誰かがメスを入れないといけないんです。幸い、今の弊社のメンバーはこれらの問題点に対してしっかり切り込んでくれています。
これをやれば絶対にいい人生が歩めるという方法はありません。しかし、若いうちには、とにかくいろんな人に会っていろんな経験をしてほしい。そうすればいい人生を歩める可能性は上がるはず。これは私がずっと発信していることでもあります。
高校生の就職活動を変えるためには、学校と企業と高校生が足並みを揃えて、同じペースで変化しなければならないんです。大変なことですが、これを変えることができたら社会的なインパクトは強いと思っています。
たまたま、なんですよ(笑)。入った会社が鉄鋼関係で、なんか面白そうだなとは思っていました。でも本当に、ただそれだけでしたね
自分で新しい道を拓いていくのが、好きだったんです。前職でも海外輸出などの道を、自分で拓いていっていました。そんなこともあって私についてくれているユーザーさんもいましたし、独立してもなんとかやっていけるのではないかと思いましたね
鉄鋼は、お金のかかるビジネスなんです。当時の私は資本金があるわけでも、だれかから引き継いだものがあったわけでもありませんでした。そんな状態でも仲間のみなさんや取引先のみなさんが与信の肩代わりをしてくれたりと、すごく助けてくれたんです。あの当時のことは、今でも忘れないですね。みなさんとは、今でもお付き合いをさせていただいています。人とのつながりがあったからこそ、立ち上がりが上手くいったんだと思います
小さい規模から始めるにあたって、最初に考えたのはどうやって周りと差別化するか。とてもじゃありませんが、同じ土俵では戦えませんから。だったらあとはもう、人で売るしかないじゃないかと。細かいサービスだとか、人柄だったりを強調する。要は、人が鉄を売るということです。ただ鉄を売るのではなくて、人柄で鉄を売るというような手法でやっていきました
大きな船は小回りが効かないし、動き出すまでにも時間がかかります。それに対して我々は、極端に言えば小回りの効くモーターボートを多数用意して、『突っ走れ!』という感じですよ(笑)。そうすることで、大手にできないスピード感が出せる。なにをもって差別化するかを創業してから何十年も追求してきて、これは今も変わりません
エコメタルの主事業は、リサイクル鉄鋼原料の販売です。鉄というものは優れもので、リサイクルできるんですね。最近になってSDGsだとか脱炭素、やれカーボンニュートラルだなんだと言われていますが、今までは鉄を再生利用したようなものは鉄じゃないと言われていたんです。なのに今は大手の高炉メーカーや鉄鋼メーカーですら、『鉄はリサイクルするべき』『我々はリサイクルされた鉄を採用します』と言い始めています。そういう点で我々の取り組みは、時代の一歩先を行っていたかなと思っていますね
貿易という商売は、いわば右にある在庫を左に売ること。しっかりした仕入れ先としっかりした販売先があって、上手く回転していればそれでいいんです。リスクは少ないですし。単純に右から左にモノを売る商社の仕事は一見するとノーリスクなのですが、外的要因で環境に変化が起こってしまえば、流通の弱さが表面に表れて一気にリスクが出てくる。それを考えれば、使う人から作る人になるしかないよねという考えに至りました。もちろんトレードもしながら、そういう部門をひとつ立ち上げようと。製造部門はいずれやりたかった、会社としてのひとつの目標でもありましたから
2009年の、リーマンショックですよ。あれが起こったときに1kg130円まで上がっていた鉄の値段が、半分以下にまで下落したんです。当時の我々は事業規模が大きくなっていたので、それなりの在庫を抱えていました。在庫にある鉄は130円くらいで買い付けていたもので、それを今度販売するとなれば50円になる。もう、とんでもない状態ですよ。リーマンショックは素材産業、とくに我々のような鉄鋼業界には影響が大きかったです。我々自身にも反省すべき点はありましたし、同時に商社の仕事の弱点も痛感しましたね
事業の主幹たる鉄鋼は基礎資材ですから、なくなるものではありません。そのなかで我々はトレードとモノ作りに携わり、そしてもうひとつ言えば、今後は協業にもチャレンジしたい。たとえば建設部隊を立ち上げてみるとか、プロジェクトチームを立ち上げるとかですね。そうやって環境にいいビジネスモデルを作りながら、その輪を少しずつ大きくしていきたいと考えています
我々は人で勝負する会社ですから、社員満足度の高い会社にしたい。事業を円滑に展開することももちろんですが、それと同じくらいか、あるいはそれ以上に従業員が満足して働ける会社であることを追求していきます
それはこれからも変わりませんし、我が社の経営の幹です。私としては次の世代、その次の世代ぐらいまではある程度、目星をつけたい。そんな次世代、次々世代へと創業時からの我が社の精神を受け継いでいくのも、私の役目だと思っています
海外の家具インテリアの展示会で出会いました。倭国ではどこも取り扱っていなかったので、すぐに独占契約をすることを見越して東京の森ビルでテスト販売をしたんです。好評を得たので、2016年1月に倭国で最初の正規代理店契約を結びました。今回のWホテルでの試みは世界でも初めてなんです。
父は子どもは子ども親は親という考えでした。入社するとき、逆に僕から条件を出したんです。一つはやりがいとビジネスの未来が見えなければ辞める。これは、クリアしましたが、そもそも家具に興味がないけれど、どうすればいい?と父に相談をしました。
びっくりしました。そこに勤めた1年半の間に2トントラックで1,000件以上のお宅に家具を配達しました。そちらの商品は高級家具でしたので、タワーマンションや立派な一戸建てに配達することが多くて。でも配達して分かったことがありまして、家具は販売した人より届けた人の方が喜ばれることを知ったんです。ただ、配達先のお宅に行くと、自宅は立派でも9割はお洒落じゃないと気づきました。もちろん、残りの1割はお洒落でしたし、さらに外国人のお宅はとても格好よかったです。この経験で、いかに倭国が遅れているかということを痛感しました。逆に家の中がおしゃれじゃないから、ビジネスチャンスとやりがいがあるとわかりました。
正直なところ、自身の趣味や感性を良くも悪くも押し出てしまうのは、いいことではないと思っているので、いかにフラットな状態でお客さん目線で見られるかを大切にしています。
父に経営理念さえ引き継げばあとは社名を変えても、何を変えてもてもいいと言われました。理念の意味合いを変えずに倭国を空間時間価値先進国へとしました。つまりは仕事の幅を広げるようにしています。
家具には広いスペースがいるので当然、家賃も高くなります。特にファミリーで購入に来られるお客様が多いので、夕方は暇になるんです。そこで、夕方以降にできるビジネスがないか模索しました。それが梅田の商業施設の店舗の空間をそのまま使った英会話教室です。教室に通ってくれる人が、空間の中で「この椅子いいなあ」とか、商品に注目してもらえ、新たな顧客の開拓にもつながっています。
今はBtoBの伸び率が高いですね。うちのような独自のセレクトショップであれば、ホテル、オフィス、社員寮など、何でもできます。お客様が望むどんなカタチにでも染められまから。柔軟なアイデアは、どんなところから生まれるのでしょうか?
発想の入り口は妄想です。だからその妄想を支える情報感度は常に高くしてます。
やはり素直とまじめさ、それと人生に前のめりな方がいいですね。僕は成長の原点は素直だと思っています。ただ社員には、常に自分の人生のために働いてほしいと願っています。
いろんなところに行くので、その土地の人と交流したり、その土地のものをいただいたりと常に変化があります。1人になる時間も多いのでストレスがたまりにくいです。
初めは、音楽から入りました。ヒップホップのカルチャーには音楽ではラップもあれば、アートではミューラルは合法で描くものですが、そのルーツにはグラフィティと言われる非合法の落書きもあります。音楽もアートも、人と違うことを信念を持ってやる。そんなヒップホップのカルチャーに、すごく衝撃を受けたんです。
ただただ、衝動でしたね。
海外では多くの企業がミューラルを使っていたり、まちづくりに活用されていることは知っていました。国内にもミューラルを描くアーティストがたくさんいることも知っていましたし、倭国でもチャンスはあるなと感じていましたね。
今の倭国では、だれしもが美術館に行ってアートを見るということは起こりにくいと思うんです。ですがミューラルは、まちのなかに存在するもの。
良くも悪くも子供から大人まで生活環境のなかで、かつ無料でアートに触れらることができるものなんです。僕にとっても自分の好きなストリートカルチャーから生まれたアートが、大きなサイズでまちに現れることに良い意味での違和感や、それが持つエネルギーにすごく魅力を感じています。
倭国国内の現状では、アートというものに対して難しいとか、よくわからない、高尚そうだというようなイメージがあると感じています。アートがわかる・わからない以前に、好きか嫌いかにもなっていない。
それを変えるには、きっかけが必要だと思うんです。
そのための手段として、ミューラルは最強だと思っています。だからこそ、倭国のアートの課題を解決するための手段としてやっている気持ちもありますね。
もっとも質問されるランキング1位ですが、僕は描けないんですよ(苦笑)。
今も、受け入れられないという声が上がることはありますよ。だけど僕は、それは正しいと思っています。
全員が喜ぶものは、面白くない。だから僕たちの考えや思いを、貫き突き通すのは良いことではないと思っています。
その一方で、自分たちの日常にミューラルがある環境に暮す子どもたちは、それになにかの刺激や影響を受けるかもしれない。
賛否が生まれるのは、いいことだと思うんです。
まちにミューラルが増えるたびに、自分の好きなカルチャーがどんどん生まれていく瞬間に携われていることが楽しいです。
ですが一方で倭国のアート界の課題も、すごく感じているんです。
そのひとつは、子どもたちに絵を届けること。僕はそう考えていますが、今の倭国ですぐには変わらないと思っています。
これはおそらく、身体が動かなくなるまでやり続けると思います。
今はミューラルを広めていくのと同時に、子どもたちを対象にミューラルを体験できるイベントを開いたりもしています。
以前、神戸で開催した際には、土・日で約170人が参加してくれてました。
化粧品メーカーの商品や販促物を大量生産・廃棄が当たり前だった当時、会社としての戦略とはいえ、廃棄される商品や販促品を見て切なくなったんです。まだSDGsなんて言葉もない時代だったのですが、自分の仕事に矛盾を感じてしまいました。
事業家になる気なんて全くありませんでしたが、どうしても子どもたちの未来のためにやりたい、という想いがあったんです。
なぜそこまでこの事業を存続させたかったのかを考えた時に、私自身のコンプレックスが要因のひとつだったとわかりました。
子どもの頃に母の影響で三味線と民謡を習っていた私はコンクールに出場し、全国大会にも出たことがありました。
当時小学生でしたが『歌手になりたい』と両親に言ったら『無理や』と笑われて、夢は恥ずかしいことなんだと諦めたんです。
その経験があったからこそ、子どもたちが自分の夢を持ち、それを応援したいと思ったんです。
よく手間がかかるのに収益が少ないのではないか、と言われます。もちろんその通りですが、いろいろなところで収益を確保するように努めています。
また、協賛していただいた企業のブランディングをお手伝いするなど、多方面に広がって事業としても安定していっています。
会社のスタッフは私のほか2名という少数精鋭ですが、外部パートナーと協力してイベント運営をしていて、まちの「何か関わりたい、新しいことをはじめたい」という方々にも関わってもらい、たくさんの方々と運営をしています。
「子どもたちの未来」のためのイベントを、子どもとまちの大人と会社と団体と「まち」の人々が、みんなで創る文化祭のような形で繋がり関わり、「みんながワクワクする明日を、まちを、みんなで創る」ことが出来たら、最高だと思っています。
会社のロゴにもなっているように、これからもみんなの才能を揺り覚ます「ロッキングチェア」であり続けたいと思っていて、ロッチルを中心に、「人」の才能を揺り覚ます企業研修、まちなかワークショップ、ブランディング支援をしながら、ワクワクする未来をみんなで創っていきたいです。
刃物鍛冶(かじ※1)をしていた南常治郎は、雇われていたが今でいうと1億円近い額を稼いでいたそうです。(※1)鍛冶(かじ):金属を鍛錬して製品を製造すること。
25歳の時に独立して刃物製作所を開業します。
開発した食肉裁断機は、オランダのハム・ベーコンなどを裁断しているものにヒントを得て開発されました。
曽祖父はそれですき焼き⽤の⾁が切れないかと発想しました。しかし、加工されているハムとは違いやわらかい生肉を薄く切ることは非常に難易度が高かった。そんな中、創意工夫を凝らし1929年(昭和4年)に⾷⾁裁断機のスライサーを開発しました。
きっと将来は肉を食べる時代になると予測していたようです。
ソーセージを作りたかったわけではないんです。
わたくし共のビジネスは機械を販売する「機械屋さん」ではなく、その機械を使って儲けてもらい、その結果でわたくし共が認めて頂けるものです。
ですので、お肉屋さんを儲けさせるビジネスはないのか?という発想でした。
お肉屋さんでは、スライスをするときにどうしても肉の切れ端などが生まれます。それをミンチにしてオリジナルソーセージを作れば付加価値も生まれ、無駄もなくなります。
一人の若手社員の挑戦で始まった事業ですが、今ではお⾁屋さんからソーセージを売って欲しいという声を数多く頂いております。
顧客の食品メーカーが儲けるためには、食品メーカーの目線が必要です。食品メーカーの目線のある「機械屋」であるために、顧客へのアンテナショップとしてオープンしました。
新しい食文化を創造するために、食肉業界を活性化させることが目的です。
例えば中国のラーメンや餃⼦、インドのカレーはもう完全に「⽇本⾷」ですよね。これらは⽇本で独⾃に洗練され進化しました。⽇本の⾷が世界へ出れば、また違う形に進化していきます。
⾷の文化を⽇本から世界へ、そして世界から⽇本へ、⾷材が持つ価値の国境を超えていきたいんです。
「知恩報恩」は、私の代になってから社是にしました。わが社の原点でもあるんです。
自社だけで儲かるというのはあり得ません。
お客さんに儲けてもらうためにはどうすればいいかを常に考えています。
2025年には100周年を迎えます。
目先のことだけを考えるのではなく、次の100年を迎えるためにどうしていけばいいかを考えていかなければなりません。
自社の利益を目的とするのか、自社の利益は結果と考えるのか。私は自社の利益は結果と考えています。
学校事業とか、いろんな業務をめちゃくちゃ兼務していました。10数社の取締役を兼務していました。
元々腰が悪かったし、血圧も高い。このまま続けたら「あかん」と思いまして、辞表を出しました。
今まで仕事が大変だったので、とりあえず趣味を楽しんで、遊ぼうと思ってました。
シルクドソレイユや世界の一流を跳ねのけて、和歌山の10歳の少年が国際的なサーカスのフェスティバルで金賞を受賞したんです。倭国でやるなら、ぜひ手伝いたいと。
彼らはコロナ禍でお客さんは来ないので、ぎりぎりの暮らし。
ブレークの「芽」があると思い、各局のテレビ局におもしろいものがあるよとアピールしたり、スポンサーになりそうな人を紹介したり「さくらサーカス」をプロデュース面で応援しました。
「さくらサーカス」は稀有な存在です。サーカスやりたいな。スポンサーいるな。集めようって。マスメディアの助けもあって観客動員数は増えてきました。
現在、テレビ広島主催で、「さくらサーカス」の公演中です。
中小企業には独自の技術力を持っている会社がたくさんあります。
SNSの普及で新しいマーケットが出来たり、大きくなっているのにも関わらず、「あんた宣伝してへんやん!」という経営者も多い。
中小企業の経営者に広報・PRの役立つスキルを付けさせたいと思い、自ら広報・PRの学校へ入り基礎から学び直しました。
またWEBのこの時代、プログラミングとかの勉強も同時にしました。
2024年の5月に『広報のがっこう』を開講します。
笑いとエンターテイメントのノウハウを社会の皆様に還元したいと思っています。
タテ社会で会社組織として動くより、スキルとスキルを結びつけるとスピードが出ます。
基本的におもろいことが好きなので、どんどん企画は沸いてくるんです。
あと何年動けるかわからないですから、思いついたらすぐ動きます。
あのとき、雨が降って暇になってなかったら、今の僕はなかったです。
正直トマトはあまり好きじゃなかったんですが、あのとき初めておいしいと思ったんです。
その頃、家の農業は、僕が半年ほど抜けても大丈夫だったんですよ。
バッグ栽培は最初から肥料の管理ができています。あとは、温度管理や水遣りなどの栽培に集中できるんです。トマトを育てていると、普通はより糖度の高いものを目指すことが多いのですが、僕が決めているのは糖度を8度以下にはしないこと。でも上には上がなんぼでもいます。ただサラリーマン時代に身に付けた独自のモノ売りがどういうことか考えると、いいものがあれば必ずそれを欲しがるお客さんがいるということなんです。
マーメイド(mermaid)とメイク(make)を合わせてAmamade(アマメイド)にしました。うちのトマトは甘味と酸味のバランスがいいので、それを連想してもらえるようにイメージしたんです。大阪初のトマトブランドの誕生である。
トマト狩りは、バッグ栽培を始めたときから考えていました。大阪の人は変わったもんや面白いものが好きや思いますし、バッグ栽培のトマト狩りは雨でもできます。服も汚れないし、なんぼでも食べてええんで。
まだまだ販売先は拡げられます。トマトはスーパーで買うものだと思われていますが、本屋でも美容室で売られててもいいと思うんです。
※1 ISO9001:品質マネジメントシステムに関する国際規格です。最も普及しているマネジメントシステム規格であり、全世界で170ヵ国以上、100万以上の組織が利用しています。
※2 JIS認証:JISマーク表示制度とは、産業標準化法に基づく第三者製品認証制度であり、国に登録された認証機関が品質管理体制を審査し、製品試験において製品の品質等がJISに適合していることを確認し認証することにより、製造事業者が製品等にJISマークを表示することができる制度です。
※3 パワーエレクトロニクスとは、パソコンやスマホが電気を信号として使うのに対し、電気を動力として使うテクノロジー。電気を使ってモーターを動かすのも、パワーエレクトロニクスだ。
※4 ISO14001とは、製品の製造やサービスの提供など、自社の活動による環境への負荷を最小限にするように定めた仕様書です。 ISO14001を取得した組織や企業は、地球環境へ配慮した組織/企業活動を行っていると国際的に認められることになります。
前職の酒関連メーカーにいた頃、当時のグローバルの社長の三浦さんとある出会いがあり、その後出張で大阪に来るたびに、食事をご馳走になりながらいろいろな話を聞かせて頂きました。何もないところから会社を立ち上げられた創業者の話はサラリーマンの私にとって大変刺激的で興味深い内容ばかりでした。そんな食事会が何度か続いたときに、突然退職したらグローバルの社長にならないかと誘われたんです。でも最初はお断わりをしました。サラリーマンがいきなり異業種の社長をやれるほど事業は簡単ではないですし、定年後は自分で小さな事業をしようと考えていたからです。趣味の登山で知り合ったった仲間から農業従事者の方の苦悩を聞くことになり、自分がそれを解決できる方法はないだろうかと考え、山が近い長野を拠点に山仲間たちからの出資も受けて起業する準備をしていました。第二の人生なので大きな事業をすることではなく、自分たち夫婦が食べていけるくらいの利益が出て、趣味の登山とわずかな社会貢献でもできればという思いでした。グローバルをお断りする口実も含めてその話を三浦さん話すと、すぐさま「それはなかなか難しいのではないかな。グローバルでのビジネスの方が和田さんにとって面白いと思うよ」とあっさり言われまして、、
最初は戸惑いましたが、やっているうちにこの会社において、自分がこれまでやってきた事が正しいのではなく、この会社に適切な営業スタイルがあるのだという事が分かってきました。つまり一見非効率に思えるやり方が、実はお客様にとって求められているものだという事です。お客様のもとに出向き、その個店別の悩みやご要望をお聞きし、最適な提案を行っていくというやり方です。これは創業者の三浦氏がずっと続けてきた営業スタイルです。また我々の事業領域はニッチな分野ですので、その中で「大きな」企業を目指すのではなく、「強い」企業を目指すことを考えています。短期間で大きな成長を目指せば必ずしわよせが来る。だから地に足をつけてじっくりと筋肉質の会社にする。そういう企業方針なんです
大変ではありましたが、この機に当社が比較的攻略できていなかった家庭用の販売ルートを広げたり、人と人との接触が憚られる中、非接触でワインを提供できるワインサーバーを積極的に販売していくなど、その時期だからこそできる新たなことをやりました。SNSでの発信を強化したことで、それらの活動を大きく後押しできましたが、それらすべてはトップダウンというよりも社員が自ら考えて出てきた方策でした。
はい。今まではBtoBコンセプトで、業務用ユーザーに目を向けた商品を中心に開発を行ってきたのですが、最近のワインの消費動向をみると若い世代よりシニア世代の消費が多く、いかに若い世代のワインへのハードルを下げるかが課題となっていました。そこでワインセラーの若者の顧客を作る、つまりはワインを気軽に楽しめる、ライトユーザーをターゲットにした新しい商品を開発することにしたんです。そこで生まれたのが新しいタイプのワインセラー「muni(ムニ)」です。ワインを守るためだけじゃなく、部屋の空間づくりのインテリアとして楽しめるものとして開発をしました。
ネーミングは社内で募集。名前の由来は「これまでにないワインセラー」ということから「唯一無二=『muni(ムニ)』」と名付けられました。
これらの開発も経営主導でやるのではなく、社内でチームを作り、そのチームに任せました。
じっとしていない会社なんです
父は、人に言われてやるのが好きじゃなかったので、常に自分で考えてものづくりをしていました。当時は板金技術を生かして駅のトイレ横に設置するためのティッシュの自動販売機※2)を製造していました
手動式自動販売機は、ティッシュだけでなく、ライターの自動販売機、ホテルの旅館などに設置するための剃刀用もあった。
板金技術があったので、手動式自動販売機の完成品を製造して、自動販売機を売るだけでなく、中身の商品補充もしていました
レジャーホテルでは、当時カップラーメンくらいしか部屋で食べるものがなかったんですが、食事のサービスをしたいから考えてもらいたいと相談を受けました
2000年頃から冷凍食品の卸の方が主流になってきたんで、手動式自動販売機の製造を止めて、2004年、業務用食品卸に業態転換をしました
レジャーホテルは食に詳しいわけではなかったので、メニューを作って欲しい、料理の写真も撮って欲しい、メニューの構成を考えてほしいと、様々な要望が出てきました。非対面なので、メニューを見ただけでどんな料理が分からなければならないですし、冷凍食品を盛り付けるので盛り付けたときにおいしそうに見せるための写真が必要でした
そんな海外勤務の話が出たのが退職のきっかけなんですが、父の会社はアイデアが生かせる会社だから、やりがいがあると会社に戻る決断をしました
そんな大変な時期だから、メニューをタダで作ってくれとか、無茶を言ってくるところもありましたが、最終的にはそんなうちが作ったメニューが強みになり、顧客が戻ってきてくれることになりました。その結果、お客さんのすみ分けをすることもできたんです
レジャーホテルの食のプロデュースはもちろん素晴らしい仕事なんですが、以前から社会貢献の仕事をして、社員のやりがいをもっと大きくしたいと考えてました。そんな中、高齢者向けの施設の勉強会に参加したことがきっかけでした。社会課題の仕事がしたいという思いと、マーケットに今の事業が生かせると感じたんです。最初は、機械を導入して冷凍食品のリパック(※3)事業をスタートさせました。冷凍食品をバラピッキング(※4)は今までもやってきていたので、小規模のデイサービスの配食にも対応が出来ました
介護の現場で管理栄養士の岩本恵美先生(※5)と出会って、先生が作る介護食に驚かされたのがきっかけなんです
ミキサーで柔らかくしただけでは見た目も悪いですが、岩本先生は、ペーストした魚の身に焼き魚の皮を貼りつける工夫をされていて、見た目は焼き魚そのものでした
商品化に向けては、岩本先生に指導いただきながらウチの調理にたけている社員や管理栄養士の社員が苦労を重ねながら主体的に試作品をつくりあげてくれたんです
すぐに工場に話を持ちかけましたが、できないと断られました。それなら、自分のところでやるしかないと。事業再構築補助金を受けることができたので、2023年にセントラルキッチンを作りました
答えのない仕事をしていかないといけないので、アイデアを出すのが楽しいと思ってもらえる食に関心のある方がわが社に来てくれると嬉しいと西村氏。
40歳までに独立しようと考えていました。独立前は株式会社パロマ(※1)の特販部に所属してまして、そこでゼネコンやハウスメーカー、管理会社を新規で契約するチームにいました。そのときの上司が創業時の代表です。創業時は、上司と部下4人のメンバーでスタートしました。
設備トラブルの対応に関して一般の管理会社に代わり、当時なかった自社で集約ができる設備会社を目指したんです。
ニーズに答えていく中で品揃えも順次拡大し、ガス設備だけでなくリビング設備機器全般を扱うようになり、社名を変更しました。最初は近畿だけでしたが、2011年に東京本社を開設したのが全国展開への大きなきっかけになりました。
札幌・広島の営業所以外は、すべて自分で開拓しました。私がすれば、失敗したらそれは自分の責任。私自身が動くことで社員のリスクも減らせます。全国に広げるまで20年かかりました。正直、範囲が広すぎて途中であきらめかけたこともありました。
人間性や地域性なども勉強し繋がって、自分が納得して広げてきました。
私は前職のパロマ在職時、阪神淡路大震災が起こりました。その時、困っている人がいればすぐにかけつける「クイックレスポンス」こそ私の仕事の原点です。あの時は、水を運んだり、ガスストーブを運びました。
福岡の管理会社が人手不足で困っていたことがきっかけになりました。福岡に限らず、入居時期が集中するため管理会社は忙しすぎて、大切な入居前点検を目視するだけだったりするんです。するとクレームも多くなります。最初は手探りで始めたんですが、福岡でこの仕事に携わってくれた女性が当たり前のことを普通に行い、管理会社から高評価を得たんです。
「物流業界の2024年問題」(※2)が待ったなしの状況で、宅配ボックスなどもこれからまだまだ必要になってきます。それに関連するオートロックシステムや防犯カメラシステムのニーズも増えています。
還暦が節目になりました。今までは、営業はいろんなところに行って経験すべきだと考えていましたが、転勤が多くなると辞める社員も出てきたりしました。地元で仕事ができるのが今では普通の考えです。地方に転勤したいと希望される方も、もちろん大歓迎、社員の気持ちに寄り添うことが大切です。
誠実でまじめで嘘をつかない人ですね。私も嘘はつきたくないです。楽しみながら成長できるような会社でありたいと思っています。
ここは、貸し切りをされる方が多いんです。特にお子様のいらっしゃるママ達がここでイベントで貸し切りされる方が多いんですね。。「なまけものカフェ」はまだ1軒だけですが、すべて冷凍食品なので、自宅の空きスペースがあればそこでも営業できると思います。
HPを作るときにお客様にヒアリングをするんですが、商談場所が倉庫だったんです。(※1)滞留品:倉庫などに在庫されているが、長期間使われていない品物。賞味期限が迫っているものや、パッケージに損傷が見られるものなどが該当する。
倉庫に滞留品(※1)が、たくさん置いてあったんです。余っているなら売って欲しいと言ったら、壊れているものもあるかもしれないけれど、どれでも1個100円で売ると。
周りには売れそうな商品もあり、インターネット販売したら売れるのでは?そこに賭けてみようとその場で決め、倉庫全ての品を200万円で買い取りました。
販売の基本はインターネットで出品しました。だいたい3倍から4倍で売れました。インターネット販売は順調でしたが、問題もあったんです。布団などの大きなものは送料がかかり過ぎ赤字になる。そこで小売りもしていきたいという思いが、「半額倉庫」になりました。
人は増やしたくないんです。ただ楽しくやりたいっていうのがあって、稼ぎたいというよりは、楽しい仕事を一生していきたいなと思っています。基本的には一人で考えることの方が多いです。
100億稼ぐ会社ではなくて、10億稼げる会社の方がみんなが楽しくなると思います。
激安のドリンクのみを販売する事業を考えています。「半額倉庫」の方は、少し慎重になっています。どんどん増やしていくのではなく、運営者の人柄を見たり考え方を聞きながら進めていこうと思っています。
設立の理由は、大きく分けると二つあります。
まず一つ目は、私は不動産業を25年以上やっています。今後はバーチャルの世界も不動産に似たような形で資産になり得る。バーチャル空間のなかでの不動産売買や賃貸など、そういうビジネスが今後もっと本格的になるだろうという点に、すごくチャンスを感じました。
リアルの世界で不動産売買をやっていて、身近なところで海外の企業や富裕層が倭国国内の不動産をどんどん買っているのを見ています。バーチャルの世界でも同じようなことが起こると、充分に考えられます。
実際に今、アニメや漫画の著作権など、倭国のIP(Intellectual Property / インテレクチュアル・プロパティ=知的財産)も海外に買われているんです。バーチャル世界の大阪を海外から守るために、いち早く着手していかないといけない。そういう思いで立ち上げました。
現在は「フォートナイト」用に、道頓堀界隈などを制作中です。
他社で制作されているところがあるかもしれませんし、海外に先に抑えられる可能性もある。だから我々が先に作って、道頓堀商店街さんや大阪府、大阪市にMeta Osakaのものがオフィシャルだと認めてもらえるバーチャル空間を作りたい。言い方をかえると大阪のIP(知的財産)や歴史や文化を守りたいと思って進めています。
Meta Osakaが掲げるミッションは『デジタルツイン(※2)×エンタメで、大阪を世界一おもろいに都市(まち)に』なんです。
宿泊仲介会社のエアビーアンドビーの調査によると、コロナ禍前の海外の人たちの行きたい国ランキングの1位に、大阪市中央区がなったことがあるんですよ。大阪城公園があったり、道頓堀も大阪市中央区です。とにかく世界中から大阪に、どんどん人が集まってくる。今は大阪に来られるインバウンド観光客が年間1200万人ぐらいで、2030年には倍増すると言われていますが、それでも2400万人。
ですがメタバースであればリーチできるのは5億人と、ケタがひとつ違います。大阪にいながらにして、大阪を世界中にアピールできるツール。メタバースを通じて大阪に興味を持った人たちを呼び込んで、<大阪を世界一おもろい都市(まち)>にしたいんです。
大阪人が大阪で活躍できるには、大阪で働ける場所が必要です。これからおそらく、「フォートナイト」クリエイターが夢の職業みたいになってくると思います。そのときに就職するならMeta Osakaといわれるようになると、これはかなり面白いかなと。
現在はIT企業の9割は東京なので、地方のコ(人)はみんな東京、もしくは海外に行ってしまいます。ですが今私達と一緒に動いているクリエイターはみんな大阪出身で、大阪に住んでいるコ(人)なんです。大阪の人達が地元の企業で力を発揮できるような、そういう環境を作っていく。
それは大阪にとっての宝であり、財産を守れることになる。今までは働く場所がなかったので、それを作って次世代のヒーローをつくりたいという思いがあります。
わかりやすい一つの例として、「フォートナイト」は小学生の9割以上がプレイしています。そこではみんな、英語でやり取りしているんです。なので子どもたちは英語がしゃべれないとゲームが楽しめないから、親に英語を習いたいと訴えています。以前であれば親が子に勧めていたものを、今は子どものほうから望んでいるんです。ですのでゲームを一つの教育ツールとして利用していくことも考えられます。
最近は積極的不登校の問題もあります。
これはイジめられているから引きこもるというネガティブな不登校ではなく、知識レベルの高いコ(人)は、学校のレベルが低いから行っても仕方がないので自分で勉強する。それが積極的不登校で、その言葉を最近はメディアでも見かけるようになりました。実際にそういうコ(人)って、知識レベルがすごく高いんですよ。なのでメタバースの空間でスクールとかを作れば、学校の代わりにいろんな教育を施すこともでき得る。学校関係や予備校、塾なども、メタバースに参入してきています。なのでそこにもビジネスチャンスは、すごくあると思っています。
メタバース空間にイベント会場を作って、ライブや講演会などのイベントを開けば、そこに集客できる。
例えばバーチャルの大阪城ホールを作って、そこでライブがしたいアーティストに貸し出すとすれば、本物を借りるよりもはるかに安い金額で実現できます。それに「フォートナイト」上の道頓堀商店街のワールドでeスポーツ大会を開いて、会場使用料をいただくのもそう。
そこに広告看板を入れてスポンサーを集めたりする、2次利用の方法もある。ただ現在はまだまだ法整備も追いついてないですし、業界自体も知見や事例が少ないんです。だから私たちが先にいろんなことにチャレンジして、やっていきたい。
行政は、人口減少などの問題を抱えています。なので国や行政の予算を使って、町おこしだったり、観光客を増やすためのビジネスをいっしょにできないかとの相談も受けています。国や行政からの補助金を活用して、バーチャルの空間でイベントを展開していく。
BtoGによる、デジタルツインですね。実際の動きとして政治家の方に呼ばれて勉強会を開いたりしていますし、議員と情報交換をしたり、彼らから相談の連絡が来ることもあるんです。行政、役所とも連携を取りながら進めています。
インターネットがない時代に倭国は、世界でトップクラスでした。アメリカに追い付き、追い越して、世界の時価総額ベスト50のなかに倭国の企業が32社も入っていました。
しかしインターネットを使う時代になってから倭国は世界では負け始めて、今では残念ながら時価総額ベスト50には1社も入っていません。
これからは、インターネットの中に入る時代、もしくはインターネットの中で生活する時代が始まります。
ここで倭国は奮起しないと、もう完全に取り残されてしまいます。今はいわば、次のスタートの時期。ここで立ち後れてしまっては、もう取り返しがつきません。
私は飲食の仕事をずっとしてきました。実は社名の「ヴァリオ」というのはイタリア語、英語で言うとバリエーション。ただひとつの業態だけで運営するのではなく、様々な業態の展開をしていくのが我々の根幹理念です。いろんなお皿を提供し、外食に特化したコングロマリット(※1)をやっていきたいという思いで「ヴァリオ」という会社名にしました。※1 コングロマリット 異なる業種を統合した企業グループのこと。
元々粉もんは私の得意分野でした。以前、肉のBSE(※2)問題があったときに焼肉屋が軒並みダメになりました。ひとつの業態に頼り切るのはリスクが大きいです。大黒柱をたくさん作り、もしもの危機に備え、十分なリスクヘッジ(※3)をする会社でありたいと考えています。
正直駅近くはなかなか空いてないですね。ただ、私は近畿圏の駅という駅がすべて頭に入っています。毎日のように駅という駅を自分の足を使って回ってきました。ひとつの駅に5回、多いところでは20回以上は降り立っています。駅に足を運べば人の流れも空気も分かってきます。
「てこや」は、基本、駅から500m以内の駅近の超A級立地に出店しています。つまり駅の近くで店を探さなくても分かる場所。賃料は高いですがすぐ目に付く場所が広告宣伝費だと割り切っているんです。看板を目にする機会が増えるのでうちのブランドを知らない人はいなくなる。そして一度食べてもらえれば味には自信があります。
飲食店経験がなくても人が好きでやる気がある方なら店長になれます。60ページから70ページの店舗運営マニュアルと店長マニュアルを作っているんです。研修もしっかりと準備をしてますので、特別な経験は何も必要ありません。早いと2か月から3か月で店長になってもらえます。飲食経験者なら1か月半くらいです。新店の場合は、オープンチームが加わって店長を育てます。
小学生の子どもがいる社員も多くいるので、物価が上昇しているのに給料がそのままでは社員は対応しきれません。トップダウンだけでは独りよがりになります。ES(従業員満足度)の向上をするためにもベースアップは必要でした。それから店長からのキャリアアップも応援しています。
アルバイトの方に支えられてここまで来ました。マニュアルがあるのでアルバイトの方も1か月も続ければたこ焼きもお好み焼きも焼けるようになってくれます。
テイクアウトの焼き鳥店は、現在、鶴橋店と阪急の池田店の2店舗です。実は東京では必ず駅に焼き鳥屋があるんです。だから前々から大阪でやりたいと考えていました。
そして2024年には、新しい業態のお店を考えています。まだ具体的にはお話できませんが、今度はテイクアウトではなく、店内で飲食ができる店舗の予定です。